学習院創立150周年記念

学習院創立
150周年記念

「学習院院歌」

昭和26(1951)年 
作詞:安倍 能成 作曲:信時 潔

01. 制定経緯について

第18代学習院長 安倍能成

大澤学習院には明治10(1877)年の創立以来、院歌(校歌)というものはなく、代わりに明治天皇より賜わり奥好義おくよしいさが作曲した「修学習業歌」が、開院記念式等で歌われていました。第二次世界大戦後、学習院の健全財政の展望が開けてきた頃、第18代安倍能成院長(以下安倍院長)のもとに多方面から院歌制定の要望が寄せられました。これを受けて安倍能成よししげ作詞、信時潔のぶとききよし作曲の「学習院院歌」が昭和26(1951)年5月に制定されました。在校生はもちろんのこと、卒業生にとっても大切な歌として、今も歌い継がれています。 

02. 児童・生徒の習得時期について

大澤初等科では、1年生の音楽の時間に歌詞の意味を指導し、歌う練習も始めます。そして、1学期の終業式までに1番から4番まで歌えるようにしています。主に、始業式、終業式、修了式、卒業式で歌っています。
また、4年生の社会科で学習院の歴史について本格的に学ぶのですが、「学習院初等科のあゆみ」に、第17代初等科長の川島ゆたか先生が歌詞の意味を解説しており、これを用いてさらに詳しく学習しています。
コロナ禍(令和2年~令和5年春頃)の時は歌う機会が減り、始業式などで歌っても1番と4番のみでした。今は元のように歌っています。

増渕女子中・高等科でも、入学後の音楽の授業で歌いますが、中学1年生の国語(古文)の授業で、古文の基礎的な内容や御歌みうたなども扱う「古文の基礎」(学習院オリジナルのテキスト、A5判)を用いて意味などを学びます。女子中・高等科では入学式や卒業式などで歌っていますが、このような授業を経て、「学習院院歌」を歌えるようになると、生徒それぞれにお気に入りの曲番が出てくるのも興味深いです。

03. 制定された頃の学習院について

第17代学習院長 山梨勝之進

大澤第二次世界大戦で、目白と青山のキャンパスは焼け野原となり、四谷の初等科は懸命な消火活動の結果、本館、門衛所と大銀杏が残りました。
GHQは戦後日本の民主化・非軍事化を進め、同時に華族制度も廃止とし、華族教育を目的とした学習院も存亡の危機に立たされました。第17代山梨勝之進院長らによるGHQとの粘り強い交渉の結果、学習院は宮内省から独立し、私立学校として再生する道が拓かれました。しかし、GHQから土地と建物は残してもらえたものの、資金はほとんど残っておらず、昭和30(1955)年頃までは給与の支払いが遅れることもたびたびあったそうです。
このような厳しい財政難の中で就任した第18代安倍院長は、私立学校としての困難な舵取りを担わされました。昭和26(1951)年に作詞された「学習院院歌」には、戦後私立学校として再出発した学習院が、こうした困難にめげず進んで行こう、という強い意志が込められたものと考えます。

04. 1番から3番までの「意気込み」の表現について

大澤「学習院院歌」の1番から3番までの歌詞は「意気込み」を表現しています。中でも1番には「もゆる火の火中ほなかに死にて」とあり、「死」という言葉が出てきます。一般的に、「死」という言葉が含まれる校歌はなく、珍しいと思います。当時、このような歌詞を作詞する安倍院長に反対意見もあったそうですが、強い信念でこの「死」という言葉を残されたと聞いています。
1番では「またるる 不死鳥のごと」と、学習院を西洋の神話に出てくる「不死鳥」(フェニックス)に例えています。500年ごとに燃える火の中で焼け死に、再び生き返るといわれる不死鳥と同じように、学習院も生まれ変わらなければならないという決意が込められています。
なお、この「不死鳥」(フェニックス)は、学習院創立150周年のシンボルマークにも施されています。

05. 4番に表現された「学習院の精神」について

大澤4番の「おのがじし 育て鍛へて もろともに 世にぞ捧げん常照とこてらせ 真理と平和」という歌詞が、安倍院長の一番伝えたかったことであろうと考えています。「自分の個性を育て鍛えて、この力を世の為、社会の為に捧げよう。」ということです。また、学習院の建学の精神(学習院学則総記)にも、「人類と祖国とに奉仕する人材を育成する」という言葉が残されています。

06. 安倍院長の思い出について

大澤初等科正堂の木の階段を、ぎしっぎしっと音を立ててゆっくりと上り、「君たち正直になりなさい」、「思いやりをもちなさい」というお話を必ずされたことは、今でも私の心に深く刻まれています。なお、私が初等科3年生の昭和41(1966)年に、安倍院長はお亡くなりになりました。
安倍院長が「学習院院歌」に込めた想いを自ら解説されている文章が、文集『小ざくら』第34号(昭和26(1951)年11月発行)に掲載されています。