昭和26(1951)年
作詞:安倍 能成 作曲:信時 潔
第18代学習院長 安倍能成
大澤学習院には明治10(1877)年の創立以来、院歌(校歌)というものはなく、代わりに明治天皇より賜わり
大澤初等科では、1年生の音楽の時間に歌詞の意味を指導し、歌う練習も始めます。そして、1学期の終業式までに1番から4番まで歌えるようにしています。主に、始業式、終業式、修了式、卒業式で歌っています。
また、4年生の社会科で学習院の歴史について本格的に学ぶのですが、「学習院初等科のあゆみ」に、第17代初等科長の川島
コロナ禍(令和2年~令和5年春頃)の時は歌う機会が減り、始業式などで歌っても1番と4番のみでした。今は元のように歌っています。
増渕女子中・高等科でも、入学後の音楽の授業で歌いますが、中学1年生の国語(古文)の授業で、古文の基礎的な内容や
第17代学習院長 山梨勝之進
大澤第二次世界大戦で、目白と青山のキャンパスは焼け野原となり、四谷の初等科は懸命な消火活動の結果、本館、門衛所と大銀杏が残りました。
GHQは戦後日本の民主化・非軍事化を進め、同時に華族制度も廃止とし、華族教育を目的とした学習院も存亡の危機に立たされました。第17代山梨勝之進院長らによるGHQとの粘り強い交渉の結果、学習院は宮内省から独立し、私立学校として再生する道が拓かれました。しかし、GHQから土地と建物は残してもらえたものの、資金はほとんど残っておらず、昭和30(1955)年頃までは給与の支払いが遅れることもたびたびあったそうです。
このような厳しい財政難の中で就任した第18代安倍院長は、私立学校としての困難な舵取りを担わされました。昭和26(1951)年に作詞された「学習院院歌」には、戦後私立学校として再出発した学習院が、こうした困難にめげず進んで行こう、という強い意志が込められたものと考えます。
大澤「学習院院歌」の1番から3番までの歌詞は「意気込み」を表現しています。中でも1番には「もゆる火の
1番では「また
なお、この「不死鳥」(フェニックス)は、学習院創立150周年のシンボルマークにも施されています。
大澤4番の「おのがじし 育て鍛へて もろともに 世にぞ捧げん
大澤初等科正堂の木の階段を、ぎしっぎしっと音を立ててゆっくりと上り、「君たち正直になりなさい」、「思いやりをもちなさい」というお話を必ずされたことは、今でも私の心に深く刻まれています。なお、私が初等科3年生の昭和41(1966)年に、安倍院長はお亡くなりになりました。
安倍院長が「学習院院歌」に込めた想いを自ら解説されている文章が、文集『小ざくら』第34号(昭和26(1951)年11月発行)に掲載されています。